疫病退散祈願第二弾、神柱宮に路上観察的参拝(その1)

                      神柱神社の一の鳥居

 都城市を代表する神社といえば神柱宮であろう、この一の鳥居は、壮大で参拝するものをまず驚かせる、向かって左側の柱の根の下にこの鳥居の諸元がが記されていた、昭和54年7月8日竣工、柱廻り 8.9m、高さ 25m、笠木幅 32.4m、額 長さ 4m・幅 2.6m、とにかくでかい。後で調べてみると建設当時は日本一大きな鳥居だったそうですが、現在の日本一は、2000年に出来た熊野本宮大社の高さ 33.9m、笠木幅 42mだそうです。      

 この鳥居を越えると、左に泉池回遊式庭園が見えてくる。この様式の庭園は大きな池を中心に配し、その周囲に園路を巡らして、築山、池中に設けた小島、橋、名石などで各地の景勝などを再現した庭園形式で、園路の所々には、散策中の休憩所や、庭園を眺望する展望所として、茶亭、東屋などが施されている。代表的なものとしては、桂離宮、兼六園、水前寺公園などがある。この庭園は、松原茶屋(旧島津御茶屋敷跡)時代からあったものなのか、公園整備の時に作られたものかは調べてみたが不明である。右側には神柱公園があり市民の憩いの場となっている。

 参道を進みますと境内へ上がる階段が見えてきます右手に、別表神社 神柱宮の石碑が見えてきます。別表神社とは一種の神社の格式で、それにについては、平安時代の延喜式(エンギシキ)まで遡ることができます。延喜式の巻9・巻10では祈年祭において天皇の命により幣帛(ヘイハク)を奉納する、奉幣(ホウヘイ)を行う神社神社2,891社が記されています。これらの神社は式内社と言われ当時の朝廷から重要視された神社でしたが、現在では消滅したり不明になっている神社も多くあります。その後、武家社会になり住民がすべて旦那寺の檀家になり、住民を管理する寺請制度が行われ、寺の関係が深くなりその管理に力を注いだところから、神社の格付けはそれほど重要視されませんでした。

 大政奉還後、天皇を中心とした国家づくりが行われる過程で国家神道として天皇の神格化が行われ、「近代社格制度」が実施された、皇室からから祈年祭・新嘗祭に奉幣を受ける官幣社(神祇官が祀る神社)と国からから祈年祭・新嘗祭に奉幣を受ける国弊社(地方官が祀る神社)218社が定められた。官幣社は国弊社より格が上とされ、それぞれ大・中・小の順に格が下がる。それ以外は、諸社と言われ府・県からから祈年祭・新嘗祭に奉幣を受ける府県社、市・町からから祈年祭・新嘗祭に奉幣を受ける郷社、村・地域からから祈年祭・新嘗祭に奉幣を受ける村社を指定し、それ以外は無格社となった。格的には、官幣社>国弊社>府県社>郷社>村社>無格社の順番となっている。宮崎県内の官幣大社は、鵜戸神宮・宮崎神宮の2社である、官幣の中・小社はなく、国弊小社は都農神宮1社である。

 敗戦後、GHQに指示により国家神道の廃止、政教分離がが進められ「近代社格制度」は廃止された。その後、神社本庁が宗教法人として発足し、各神社を管理していく上で伊勢神宮を除く旧官国弊社や一部の規模の大きな神社においては、神職の進退等に関して一般神社と同じ扱いにすると不具合があるところから、「役職員進退に関する規定」において特別な扱いをする神社を別表に記載したところから「別表神社」と呼ばれることになりました、主に官幣社・国弊社・府県社を中心に全国353社が指定されている。別表神社は、近代社格制度のように神社の格付けを行うものでなくあくまでも神社の人事のみに関する区別であるが、別表で掲載されている神社は神社の由来、社殿、境内の規模、神職の数など比較的大きな規模の神社であり、一般的に格付けと捉えられている。なお、伊勢神宮は別格とされ別表神社に入らず、神宮大宮司は、「神宮規則」により、勅裁を得て任命される、特別な扱いがなされる。また、伏見稲荷大社、靖国神社、東照宮等は神社本庁に属していないため旧官幣社でありながら別表には記載されていない。

 二の鳥居を超えると階段の左右に境内神社「神門神社」があり左殿に櫛石窓神(クシイワマドノカミ)、右殿に豊石窓神(トヨイワマドノカミ)が神社全体をお守りしている。この2神は、天石戸別神(アマノイワトワケノカミ)と言われ。古事記の天孫降臨の段に登場し、天津彦瓊瓊杵命(アマツヒコニニギノミコト)が天降る際に、三種の神器に常世思金神(トコヨノオモイカネノカミ)、天手力雄命(アメノタジカラオノミコト)、天石戸別神を副えたと記されています。別段では、御門の神であると期されています。そのことから、天石戸別神は宮中でも宮殿の四方の門に祀られていた守り神様です。神柱宮でも境内地の守り神として睨みを利かしていいるのでしょう。

                       右殿の神門神社

 手水舎のそばに案内板がります。お祀りしている祭神は主神は、天照皇大神(アマテラススメオオカミ)、豊受姫大神(ヨヨウケヒメノオオカミ)、相殿神(主神とのご縁が深く一緒にお祀りしている神様)左殿には天津彦瓊瓊杵命(アマツヒコニニギノミコト)、天手力雄命(アメノタジカラオノミコト)、右殿には天太玉命(アメノフトマタノミコト)、天津児屋根命(アマツコヤネノミコト)、萬旗豊秋津姫命(ヨロヅハタトヨアキツヒメノミコト)の七神が祀られています。この中に天岩戸にお隠れになった時や、天孫降臨の神話に出語られた神様が多いるようです。

 まずは、岩戸にお隠れななった張本人の天照皇大神、岩戸を開き戸隠神社(長野県)まで投げ飛ばし天手力雄命、三種の神器に一つである八咫鏡(ヤガタノカガミ)差出した、天太玉命と天津児屋根命。天孫降臨では天照皇大神が孫の天津彦瓊瓊杵命に三種に神器を持たせて、豊葦原瑞穂の国を治めるために、高天原の神を連れて天降るように命じます。その際、五伴諸神(イツトノオノカミ)と呼ばれる五神の神様を伴います。ここにも先ほど紹介した、天太玉命と天津児屋根命の2神が従います。また、これとは別に先ほど神門神社に祀られている、櫛石窓神、豊石窓神が三種の神器をお守りして従います。

 私も宮崎に来て、神話に興味を持ち色々と勉強させてもらいましたが。宮崎は他県から来ると、身近に神話があると土地だとつくづく思います。

 これからは、お祀りされている神様について紹介したいと思います、まずは、主神の天照大神です、女神で国家安泰、太陽神、農耕神、機織神であり、皇室の祖と言われ、最も高貴な神で伊勢神宮の内宮でお祀りされています。元々は宮中で奉祀していましたが10代天皇、崇神天皇5年に疫病が流行し多くの人々が亡くなりました。翌年、疫病退散を願い天皇は天照大神を皇居の外に移すことにします。皇族の豊鋤姫命(トヨスキヒメノミコト)に命じて笠縫邑(かさぬいむら)に鎮座されます。その地については、現在の大神神社(大神神社、奈良県桜井市三輪)、笠山荒神社、(奈良県桜井市笠)、大多神社(おおじんじゃ、奈良県磯城郡田原本町)ではないかと言われています。その後、12代天皇、垂仁天皇25年に、現在の伊勢の地に鎮座されました。

 豊受姫大神は天照大神の姪に当たる食物、穀物を司る女神さまで、伊勢神宮の外宮でお祀りされています。

 天津彦瓊瓊杵命は天照大神の孫に当たり、農業を司る神と言われています。天孫降臨で天降り高千穂の峰に降り立ったと言われている。五伴諸神の一神である、天手力雄命は力の神であり、天津彦瓊瓊杵命や三種の神器の守護神です。天太玉命、天津児屋根命も五伴諸神ですので、天津彦瓊瓊杵命や三種の神器の守護神です。                    

 天津児屋根命は、岩戸隠れの際に、岩戸の前で祝詞を奏上しました、名前のアマツコヤネノミコトのコヤネは「小さな屋根(の建物)」または、「言綾根(コトアヤネ)」の意味で、「天上界の小屋根(託宣の神の居場所)」または、「祝詞を美しく奏上すること」と言われています。託宣の神の居場所というと言えば、託宣神である前のブログで書いた、事代主命(コトシロヌシノミコト)と関係があるのかもしれませんね。「古事記」には天孫降臨の際に天津彦瓊瓊杵命に随伴し、中臣氏の祖神(オヤガミ)になったと記されています、通称として春日大明神とも呼ばれ、中臣鎌足を祖とする藤原氏の氏神とされて信仰されてきた他、藤原氏の繁栄にあやかって現在では出世の神としても信仰されています。

 それぞれの神々を思いながら、手水を使い心静かに、神々に新型コロナの疫病退散をお祈りさせていただきました。

                        基柱神社

 本殿の右手に境内神社の基柱神社(モトバシラジンジャ)があります。ご祭神は菅原道真公(スガワラノミチザネノミコト)と平 季基命(タイラノスエモトノミコト)がお祀りされています。                                      

 菅原道真命は学問の神様、天神様としてよく知られています。醍醐天皇の時代に右大臣にまで昇進し、朝廷のトップに上り詰めたが、「宇多上皇を惑わした」とか「醍醐天皇を陥れようとした」などの、今でいうフェイクニュースが流されて、失意のうちに太宰府に流されほぼ幽閉生活を送り、失意のうちに亡くなってしまいます。遺体を牛車で運んでいると、現在の太宰府天満宮の所で牛が動かなくなりそこに葬ることとし、そこに廟を建てたのが太宰府天満宮の始まりとされています。

 これは福岡の都市伝説なのですが、合格祈願とか学力向上祈願にアベックで行くとすぐに別れることになる、と言われています。なぜかと言うと、菅原道真は太宰府には単身赴任で来ていたので、焼きもちを焼いて別れさせられるらしいのです。もう一つの説は、合格祈願とか学力向上祈願して、これから努力しなくちゃいけない時期に、異性とイチャツクている時じゃないだろうという説です。

 昨年は、年号が改まったことで、近くの坂本神社に在ったとされる、太宰府に赴任していた、大伴家持の邸宅で行われた、万葉集に掲載された梅見の宴で催された歌会の序文から令和の元号が選ばれました、その所縁の地として多くの観光客が訪れました。ここで少しこの序文をおさらいしてみましょう。

(原文)于時、初春月、氣淑風、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。

(書き下し文)時に、初春の月にして、気淑く風らぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮梅見の宴後の香を薫す。

(読み)ときに、しょしゅんのれいげつにして、きよくかぜやはらぎ、うめはきょうぜんのこをひらき、らんははいごのかうをかをらす。

(現代文訳)時は初春のい月(よいつき)である、空気は美しく、風はやかで、梅は鏡の前の美人が白粉で装うように花開き、蘭は身を飾る衣に纏う香のように薫らせる。

 次に平 季基命についてですが、資料が乏しく出自等ははっきりしませんが、万寿年間(1024年~1028年)に太宰大監(ダザイダイゲン)の職にありました。位から言えば大宰帥(ダザイノソチ)、太宰大宰権帥(ダザイノゴンオソチ)の下に置かれた、四等官と呼ばれる中間管理職で四等官には六階級のうち上から三番目の位にありました。万寿3年(1026年)に弟の良宗と共に未開の地であった日向国諸県郡島津院に荘官として島津荘の開墾を行うことになった。        

 平 季基は荘官として島津荘を治めるに当たり、梅北に屋敷を構え、正月20日に梅北村大吉山より門柱を切り出し、惹いて家門を建てようとして、片柱を500人で惹いても動かず、さらに500人増やして柱を惹こうとした時、その光景を見ていた6歳になる娘がにわかに神がかりになり、「われは伊勢の外宮(豊受姫大神)なり、この地において万民を護ろうと思う。速やかに社を造営し、その社の名前を『神柱』と称すべし云々」というご神託により、平 季基は直ちに伊勢神社に赴き皇大御神(スメオオミカミ 天照大神)様のご分霊を奉戴して、同年9月9日に諸県郡中郷村大字梅北字益貫に創建奉祀されたのが「島津御荘総鎮守神柱神社」の創始と社名の由来です。平 季基命は神柱神社の創建者であり、また初代の祠官(シカン)を務めました。

 開拓は着々と進み、これを関白の藤原頼通に寄進して、後に日本最大級の荘園となる嶋津荘を成立させました。その後に家督を娘婿である伴 兼貞に譲り、自らは諸県郡南之郷箸野(現在は橋野)御所に隠居し、同地に若一王子神社を造営し社司として生涯を終えました。曽於市末吉町南之郷字橋野の若一王子神社の近くには墓所があるが、その霊は都城の礎となる島津荘を開拓した功績によりここに祀られています。

                      神柱宮の案内版

 案内板を見てみると明治6年(1873年)5月に25日に県社別格となり、先ほど紹介した梅北から小松原に同年10月28日に遷座したようです。これに関しては、明治4年(1971年)11月14日に都城県が発足しましたが、わずか14か月後の明治6年(1973年)1月15日に美々津県と合併して宮崎県が発足しました。都城県が廃止された以降に県社に指定されていますが、これに奔走したのが当時の(県知事)参事 桂 久武(元薩摩藩士)だと言われています。桂 久武は神柱神社が都城を中心とする元島津荘の島津御荘総鎮守である神柱神社が都城県にとって県社とするのがふさわしいく、都城県の中心部に近い松原茶屋(旧島津御茶屋敷跡)遷座させるべきと考えていました。地域の人々も大いに賛成していましたので、宮崎県となった後も、神柱神社を県社とし小松原に遷座させるこになったそうです。

 ここで少し桂 久武のことについて書いてみましょう。桂 久武は大河ドラマ「西郷どん」では、スピードワゴンの井戸田潤さんが演じていましたが、島津家分家・日置島津家当主の島津久風の五男として生まれます。次兄は沢村一樹さんが演じていた「お由良騒動」で切腹させられた赤山靭負(アカヤマユキエ)です、ドラマではその時、介錯人のお願いに来たのが桂 久武でした。赤山靭負は、西郷隆盛の幼少の時代に大変影響を与えた人で、西郷の父の吉兵衛が切腹の時に靭負が身に着けていた血染めの肩衣を持ち帰り、赤山の最期について、吉兵衛から聞かされた西郷が悔し涙を見せる姿は、彼の人生序盤のハイライトと言えるでしょう。

 桂 久武は弓の名手でありそのころは、武士館演武方の要職を務めていましたが、お家騒動の巻き添えになり大島守衛方・銅山山方に左遷され奄美大島に赴任します。その当時、そのころ流刑中でであった西郷隆盛と親交を結び生涯の友となります。その後、藩の中枢である大目付、家老に昇格し薩長同盟の提携に尽力し、西郷から厚い信頼を受けます。明治政府では、明治3年(1970年)に西郷と共に鹿児島藩権大参事となり藩政のトップを務めます。

 先ほど述べたように明治4年に都城県の(県知事)参事となります。14か月と短い期間でしたが、都城県を治める三大方針の一つが「学業を奨励して人材を育成する」で、都城に学業振興・人材育成の大切さを示しました。都城県が廃止された後、豊岡県(京都府北西部と兵庫県北部地域)の権県令(ゴンゲンレイ)の辞令を断り、現在の霧島市に移住して、開拓の指導や、鉱山開発を行っていました、官職には就きませんでした、久武の能力を高く評価していた大久保利通は、政府の役人になるよう五代友厚(ゴダイトモアツ・鹿児島藩出身の明治期の実業家)に、斡旋を依頼したほどです。明治10年(1877年)西南戦争に西郷隆盛が挙兵しその見送りに赴いたところ、西郷側の輜重(シチョウ 前線に送る兵糧、被服、武器、弾薬等の軍需品)があまりにも粗末にであったのを見かねて、家人に自宅に刀を取りに帰らせ、そのまま薩摩軍の隊列に加わりました。従軍後は大小荷駄本部長(輜重の責任者とし)て、西郷と共に転戦しましたが、同年9月24日政府軍が薩摩軍が籠もっていた城山を総攻撃して来た時、西郷と桂 久武・桐野利秋・村田新八・池上四郎・別府晋介ら約40名の将士は洞前に整列し決意新たにし、岩崎口に進撃しました。まず国分寿介が剣に伏して自刃し、桂 久武が被弾して斃れると、弾丸に斃れる者が続き、島津応吉久能邸門前で西郷も股と腹に被弾した。西郷は別府晋介を顧みて「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」と言い、将士が跪いて見守る中、襟を正し、跪座し遙かに東に向かって拝礼しながら、別府に首を打たせる形で自害した。介錯を命じられた別府は、涙ながらに「ごめんなったもんし(お許しください)」と叫んで西郷の首を刎ねたと伝えられています。桂 久武は最後まで西郷と共に戦い生涯を終えた享年47歳。墓所は南州墓地にあり、西郷の墓を囲む幹部の墓の中にそれはあります。

              生涯の友、西郷隆盛の墓と並んでいる桂 武久の墓

 少し長いブログになってしまったのでこの辺でキーボードから手を放そう、昔はペンを置こうとやるのですが、次回は(その2)として神柱神社の別の場所について書いてみよう。

新型コロナウイルス疫病退散のため八坂神社に路上観察的に参拝

 前回、蘇民将来をめぐる素戔鳴命と牛頭天王について書いてみましたが、新型コロナウイルス疫病退散のために宮丸町にある八坂神社に参拝して疫病退散を祈願して来ました。皆さんご存じの通り日豊線の高架橋の下にある神社です。 高架越しに神社の森と一の鳥居が見えてきました、

 境内に入ると二の鳥居と本殿が見えてきます、さっそく手水を使おうと思って手水舎に行きましたが、水がありませんでした。仕方なく、そのまま本殿に進んで疫病退散の祈願をしてきました。普通は、手水舎の近くに祭神や云われ等を書いた案内板があるのですがそれもないのでしばらく境内を観察してみることにしました。

二の鳥居から見た本殿

 本殿の左側に境内神社の小さな祠が見えますが、祭神はわかりませんでしたが、取り合えず境内神社も参拝しました。境内神社の前に4基に大きな碑が見えます。境内神社の前には小さな狛犬があります。この碑にこの神社の祭神や云われが書いてあるのかもしれませんので、さっそく観察してみました。

 碑は左から順に新しくなっていきます。一番左は大正3年に本町からこちらに移転して来た時のものです。その次は、昭和42年に社殿の建て替えを行た時のものです。その隣のものは、昭和52年に日豊線の高架化で境内地の一部が買収されそのために、社殿等の配置が不釣り合いになり、社殿・鳥居・灯篭・手水舎・記念碑・神庫にの移転改装を行いその後、本殿の銅板の葺き替えと恵比須神社の改築を行た記念碑です。その隣は、これと同時に行った玉垣とにの鳥居の新設の記念碑です。

 この4基の碑を見て祭神と云われが、だいたい理解できましたので、宮丸町の八坂神社について紹介してみましょう、祭神は須佐之男命(スサノオノミコト)[前回のブログでは、素戔鳴命と書いていましたが、碑文では須佐之男命となっていますので今回のブログでは須佐之男命とします]と大国主命(オオクニヌシノミコト 須佐之男命の子孫6世孫にあたります)です。須佐之男命は、前回にブログに書いたように疫病除けの神様です。一方の大国主命は大黒様とと呼ばれ「因幡の白兎」の神話でよく知られています。大国主命は出雲とのかかわりが深く出雲大社を筆頭に多くの神社に祀られている「病を封じる神(医療神)です。余談ですが大国主命とは子だくさんで180人の子供がいたそうです。八坂神社は、これだけで新型コロナウイルス退散祈願にはピッタリの神社です。

境内神社 左が恵比須神社 右の祭主は不明

 境内神社に恵比須神社があります。えびすは、恵比須・恵比寿・戎・蛭子・胡等色々な表記がある。実は恵比須神社には恵比須神社には恵比須様を祭神として蛭子命(ヒルコ)をお祀りするところと、大国主命の子である事代主命(コトシロヌシノミコト)をお祀るするところがあります。前回のブログで書いたように、素戔鳴命と牛頭天王が同一視され神仏分離令の実施後、素戔鳴命に統一化されたように、室町時代から七福神の一柱であるり、「大漁追福」「寄神(漂着物)」「商売繁盛」「五穀豊穣」の神である恵比須が蛭子命や事代主命と同一視されるようになってきた。

 蛭子命は国生み神話で有名な伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)の子供ですが、3歳になっても足が立たなかったため、葦の船に入れられて、淤能碁呂島(オノゴロジマ)[淤能碁呂島は淡路島沖にある沼島と言われている]から流されます。そのため伊邪那岐命と伊邪那美命の子供の数には数えられていません。流された蛭子命が流れ着いたという伝説は日本各地に残っています。「源平盛衰記」では、摂津の国に流れ着いて海を領する神となって、夷三郎として西宮に現れた(西宮大明神)と記している。蛭子命が海からやって来たことから、恵比須が漁業や漂着物を司る「海の神」である恵比須の姿と一致し同一視されるようになった。蛭子命を祭神とする総本社は兵庫県西宮市にある十日戎の走り参り(1月9日開催)で「福男選び」で知られる西宮神社です。

 一方、事代主命は先ほど書きました通り大国主命と神屋楯比売命(カムカヒメノミコト)の間に生まれた神です。事代主命という神名は「言葉(事)を知る(代)神」神様のお告げを表す「託宣の神」と意味を持ち。託宣の力で天皇を守護する神として、宮中において祀られる重要度の高い神です。直接的に恵比須を表す海とは関連はありません。しかし、国譲り神話で、父である大国主命の使者が事代主命に天津神(高天原に住む神々のこと)からの国譲りの要請を受諾するかを尋ねるために訪れた時、事代主命が釣りをしていたとされるところから恵比須が海の神であることが結びつき、両者を同一視する説ができてきた、七福神の絵図で恵比須が釣竿を持ち鯛を釣り上げているのは、この事代主命の伝承によるものと言われている。事代主命の父である大国主命が大黒天と習合したしたことにより、恵比須と大黒天が親子ともされている。事代主命を祭神とする代表的な神社は、なにわの商売繁盛を願う福笹や毎年3,000人以上の応募がある福娘で有名な十日戎が行われる今宮戎神社です。その歴史は古く聖徳太子が四天王寺を建立する際その西方の守護神として建立されたと言われています。

 この今宮戎神社と八坂神社(京都にある総本社)とはかかわりが深く、八坂神社の氏子が今宮に移り住んだとき、今宮戎神社ご分霊を分社とし八坂神社の境内神社にお祀りしたことに始まります。この境内社は珍しく北向きに立っているところから北向蛭子神社と呼ばれています。そのご縁から、今宮戎神社からは毎年、祇園祭の折りには幣帛(ヘイハク)を、大晦日には鯛をご奉納いただきます。八坂神社からは1月8日に、今宮戎神社の十日戎に先だっての献茶祭に神水を持参してお供えします。このような関係から、宮丸町の八坂神社の境内神社にお祀りしている恵比須神社も祭神は事代主命と思われます。

         鶴丸城址にある都城歴史資料館

 碑文によると元和元年(1615年)祇園社として鶴丸城址に勧請(カンジョウ 神仏の分霊を請じ迎えること)されました。この年は、大坂冬の陣で豊臣勢が徳川家康によって滅ぼされ江戸幕府が成立した。そのためこれまでの慶長から元和に改元されました。この年は、都城島津氏にも大きな出来事がありました。この年、一国一城令が出され鶴丸城が廃城となり、新地移りと言われる新たなまちづくりが行われ、天神山(現旭丘神社)を中心に都城領主館(市役所、明道小学校周辺)が建てられ、この領主館を中心に武家屋敷が立ち並び、広口交差点付近に北口番所が置かれ、番所から領主館までの道は武士以外の通行は規制されていた。城下町も五十町中尾から移転され、本町(元上町)、三重町、後町(元西町、八幡町)唐人町(元中町)平江町という町人街が形成された。本町には一番多くの店があり領主館に卸す御用商人たちの店も並んでいた。このことから、城下町の中心から少し離れた場所に祇園社は建てられたようです。

              幕末期の都城の地図(出典:都城の地名考)

 藤本総合病院の西側の交差点のところに交差点の北西角に東口番所がありました。この前から、セブンイレブン蔵原店、NTTを経て神柱神社と忠霊塔のある公園の間ににある道路は江戸時代は志布志往還(シブシオウカン)と言われる重要な通りがありました。新地移り当時には、広口交差点の南東角にあった北口番所から志布志往還を結ぶ道路はありませんでした。その当時この辺りには水田が広がっていました。正保4年(1967年)ごろにこの田んぼを埋め立てて道を作ることにしました、この土を広口交差点の北東角の田んぼを掘り、その土で埋め立てしました、掘り下げた場所は池にして池の中の小島に阿弥陀堂を作りました。そのためこの池は阿弥陀池と呼ばれるようになりました。また、この通りはこのことから、池之小路(イケノドンス)と呼ばれるようになりました。

 大政奉還後に明治政府は神仏分離令が発布された後、明治元年に阿弥陀堂は廃寺となり、その跡に鶴丸城跡にあった祇園社が移転してきました。明治11年(1878年)ごろに埋め立てられ、南半分に祇園社が建てられ、明治15年(1882年)に北半分に郵便局が建てられた。祇園社の祭神がその当時たぶん、牛頭天王(ゴズテンノウ)のままになっていたのでしょう、明治35年(1902年)前後に西川治平氏の手によって京都の本社から須佐之男命の分霊をここに遷遇され祇園社から八坂神社と名を改めました。

                  阿弥陀池跡と右奥の道路が池之小路

 大正3年(1941年)1月12日に起こった桜島の大噴火により、八坂神社一帯は火山灰や軽石等が5cmほど積る災害に見舞われ、同年11月28日に現在の宮丸町の現在地に社殿、社務所を新築し移転しました。

 4月26日現在、新型コロナウイルス感染者数は、全国で13,242人、死者360人に上っています。宮崎では感染者17人、死者は0人です。福岡に帰りたいのですが、緊急事態宣言の特定警戒都道府県にも指定されていますし、感染者602人、死者14人と全国で7番目に多い感染者数です。宮崎県でも県外への移動は自粛の要請が出ているので帰ることができません。このゴールデンウイーク中は、新型コロナウイルス退散祈願の神社の参拝や観察をしながら、ブログでも書きながら、まったりと過ごしていきたいと思います。

新型コロナウイルスと茅の輪くぐり

 3月11日にWHOが新型コロナウイルス感染症のパンデミックを宣言しました、その後わが国でも4月7日に、東京都・神奈川県・埼玉県・千葉県・大阪府・兵庫県・福岡県の7都道府県を対象にして緊急事態宣言を発表しました、しかしながらその後も感染者は増加し、4月11日現在、感染者数6,921人、死亡者131人となりました。この中には著名人も含まれています、特に、志村けんさんがお亡くなりになった件は、多くに国民が驚いたとともにショックを受けました。宮崎県においても感染者17人、死者0人となっています。幸い都城市では感染者はまだいませんが、隣接する宮崎市では9名の感染者が報告されています。

新型コロナウイルスの電子顕微鏡写真

 感染拡大のため、政府では2020東京オリンピック・パラリンピックの延期、不要不急の外出の自粛、クラスター(集団感染)防止の観点から3密「密閉」「密集」「密接」する場所へは行かないことが、呼びかけられた。そのため、イベントや花見、歓送迎会など集団での飲食が自粛され、一方、マスク・トイレットペーパーの買いだめなど市民生活にも大きな影響を及ぼしています。

 テレビのニュースやワイドナショーも新型コロナウイルスの話題一色です。そんな中、ネットニュースを見ていると夏越し大祓いの時期でもないのに、京都の八坂神社で「茅の輪」を特別に設置したとの報道がありました。これは、新型コロナウイルスの感染が拡大していることから京都の八坂神社では、通常、夏に境内に設けられる疫病の退散を願う大きな輪を先月から特別に設置しています。夏越大祓いの時期以外に設けられたのはコレラが流行した明治時代以来、143年ぶりとのことです。この茅の輪は新型コロナウイルスが終息するまでは、設置されるそうです。今回のブログは茅の輪くぐりについて書いてみたいと思います。

 茅の輪の由来については、蘇民将来(ソミンショウライ)という人物についての民話に由来しています。

 蘇民将来の話は、様々な書物に書かれていて、鎌倉時代に編纂された「釈日本各記」や茅の輪くぐりのとても関係深い八坂神社の歴史について書かれた「祇園牛頭天王御縁起」や伊勢などの伝承でそのお話が見られます。いづれも似たような話ですが、一部違う点がありますのでそのあたりを考慮して、簡単に蘇民将来と茅の輪の話を解説します。

 蘇民将来の茅の輪の物語には、古事記では須佐之男命、日本書紀では素戔鳴命(スサノオノミコトという神様と牛頭天王(ゴズテンノウ)という神様が出てきます。(武塔神と表記されたものもありますが、これは素戔鳴命と同一視されています)今回は、「釈日本各記」にある備後(現在の広島県の東半分)風土記の蘇民将来の物語をベースにご紹介します。

 武塔神という神様(=素戔鳴命)がお嫁さんを貰いに旅に出ます。この旅の途中に日が暮れてどこかで一泊できるところを探すことになりました。ある村で長者の巨旦将来(コタンショウライ)に宿泊をお願いすると本来ケチな男だったので宿を貸しませんでした。

 牛頭天王の話では、宿を断ったことに大激怒して、一族もろとも殺してやろうか怒ったのですが、従者の説得でその場では怒りを鎮めます。

 巨旦将来に断られた一行は、巨旦将来の弟で貧しい暮らしをしていた蘇民将来に宿を貸してくれるようにお願いすると。蘇民将来は「狭い家でよければ、ぜひお泊り下さい」と宿を貸します。宿泊させたばかりでなく、貧しい暮らしながら粟餅を振るまうなど、丁重に対応しました。蘇民将来のこの行いに感動した素戔鳴命(牛頭天王)は一泊した後、蘇民将来の家を出て旅の目的である妻を娶り、その帰り道に蘇民将来のところに立ち寄り感謝の気持ちとして「茅の輪」を授けます。そして「蘇民将来のの子孫だ」と分かるように一家の者は茅の輪を腰につけるように言い残して国へ帰っていきます。

 素戔鳴命の一行が帰って間もなくすると、蘇民将来の子孫以外の村人はすべて疫病に罹患し死んでしまいました。素戔鳴命が渡した茅の輪の「魔除け」の力によって蘇民将来の子孫たちは助かり、これ以降、茅の輪や蘇民将来には疫病除けの力がある言われ始めたのです。

 牛頭天王の話は少し素戔鳴命と違っていまして、牛頭天王が蘇民将来の家にお世話になって旅立つときに玉を授けます。その後、その玉の力で蘇民将来はたちまちお金持ちになて行きます。素戔鳴命の話と同様に、牛頭天王が妻を娶って国に帰る途中に蘇民将来の村に立ち寄ります。すると、蘇民将来がお金持ちになった事を嫉んだ蘇民将来の兄、巨旦将来が「今回は、私の家にどうぞ泊まっていってください」と調子のいいことを言いました。前回の一件のこともあり、ひと騒動が起こります、怒りを抑えきれずに牛頭天王は巨旦将来の一族を蹴り殺してしまうという悲惨な事件を起こします。

 巨旦将来を蹴り殺した後、牛頭天王は蘇民将来に対して「茅の輪を作って、”蘇民将来の子孫”と書いたお札を玄関に飾りなさい」と言って帰っていきます。牛頭天王という神様は、祇園精舎の守護神であり暴れ者として有名で(この辺については天照大神が天岩戸にお隠れになる事件を起こした、素戔鳴命とよく似ています)疫病神扱いされていましたが、この一件から一転して除災招福の神様となって、全国様々な地で祀られるようになりました。

 明治以前は牛頭天王という神様はとても有名で、祇園精舎の守護神であったところから「祇園様」とよばれ大変親しまれていました。また、牛頭天王をお祀りした神社は「祇園社」と呼ばれていましたが、今ではあまり聞かれることはありません。これは明治時代の神仏分離令の影響で、仏教に関係する牛頭天王を祀る神社は同一視された素戔鳴命という神様に名称を変えなくてはいけなかったからです。これと同時に祇園社も改名を求められ京都の祇園社は八坂神社と神社名を改めました。今は、元祇園社の祭礼だけは「祇園祭」としてその名を残しています。祇園祭の由来は、貞観11年(869年)に都の疫病が流行し、平安京の広大な庭園であった神泉苑に66本の鉾を立て、祇園社(現八坂神社)の神輿を迎え祇園御霊会が行われました。これが、現在の京都の祇園祭の源と言われています、疫病退散のために、これが各地に広まってそれぞれ形を変え今も続いています。

 もう一方の蘇民将来も厄除祈願のため岩手県の黒岩寺蘇民祭を始め、岩手県各地で形を変えながら蘇民祭が行われています。また、京都の八坂宮や伊勢、志摩地方では、厄除け祈願として、茅の輪くぐりや「蘇民将来」や「蘇民将来子孫」などと記された護符の頒布が行われています。

 上記右のイラスト茅の輪くぐりの作法について少し説明しましょう、茅の輪くぐりのくぐり方は、茅の輪を左・右・左と8の字に3回回るのが一般的です。基本的なくぐりの方法は以下のようになります。

  • 1周目:正面でお辞儀、左足で茅の輪をまたぎ、左回りで正面に戻る
  • 2周目:正面でお辞儀、右足で茅の輪をまたぎ、右回りで正面に戻る
  • 3周目:正面でお辞儀、左足で茅の輪をまたぎ、左回りで正面に戻る
  • 正面でお辞儀、左足で茅の輪をまたぎ、参拝へ

茅の輪くぐりのときには、神拝詞(トナエコトバ)を声に出さずに唱えます。代表的なものは以下のようなものです。

「祓い給へ 清め給へ 守り給へ 幸え給へ」
(はらへたまへ きよめたまへ まもりたまへ さきはえたまへ)

また、茅の輪くぐりの時の神拝詞は、地域や各神社で異なるようです。茅の輪くぐりをする際は、各神社でお尋ねるとよいでしょう。以下のように、1周目から3周目でそれぞれ、神拝詞(となえことば)が異なる場合もあるようです。

  • 1周目:水無月の 夏越の祓 するひとは 千歳の命 延ぶというなり
  • 2周目:思ふ事 皆つきねとて 麻の葉を きりにきりても 祓へつるかな
  • 3周目:宮川の 清き流れに 禊せば 折れることの 叶わぬはなし

茅の輪くぐりのくぐり方は、神社ごとに異なります。これは、神社ごとに祭神が異なるからです。

たとえば、1周少ない2周になっている場合、神拝詞が「蘇民将来 蘇民将来」「祓い給ひ 清め給へ 守り給へ 幸へ給へ」となる場合などがあり、混雑時には1周のみになることもあります。

 色々新型コロナウイルスと茅の輪くぐりについて書いてきましたが、次のお休みの日に宮丸に八坂神社があるので、新型コロナウイルス退散の疫病退散いのためにお参りに行ってきます。