100年前のパンデミックについて考える(その1)

基地内の倉庫を臨時の病床として治療を行った

 今から約100年前の1918(大正7)年~1921(大正10)年にかけて、全世界に猛威を振るった「スペイン風邪」と呼ばれるパンデミックが発生しました。当時、世界人口は約19億人と言われており、その内27%の約5億人が罹患し、死亡者数は1億人を超えていると言われています。感染拡大期が第一次世界大戦の時期と重なり、20歳~35歳の青年層の死亡率が高かったところから、戦場で戦っている敵味方双方の兵士にも罹患者や戦病死者が増え軍事作戦にも混乱がもたらされ士気を低下を招きました、一方、戦地以外でも徴集予定の成人男性が罹患・死亡したため参戦国内でも厭戦気分が広がり、世界大戦の終結が早まった一因ともいわれています。

 発生源は諸説あり不明であるが、感染情報の初出がスペインであったため、「スペイン風邪」と呼ばれている、1918年当時は第一次世界大戦中であり、世界で感染症の発生やそれに伴う死亡者数などの情報は軍事的機密で外部への報道は行われていなかったが、スペインは中立国であり、大戦とは無関係であったことや国王アルフォンソ13世や政府高官も感染し、正確な情報を世界に発表していたため、「スペイン風邪」と呼ばれるようになった。

 発生源の一説として、1818(大正7)年3月4日、アメリカ合衆国カンザス州にファンストン陸軍基地で1人の兵士が発熱、頭痛、喉の痛みを報告した。これが正式な記録が残る最初の感染者と言われています(これ以前にも記録のない感染例があった可能性は高い)。この日1日でこの兵士の同僚約100人から同様の病状の訴えがあり、ファンストン陸軍基地ではその数日以内に522人のクラスターが報告されている。

 当時、アメリカは第一次世界大戦の参戦中で、ファンストン陸軍基地はヨーロッパに渡るアメリカ外征軍の大規模訓練基地でありこの基地で発生した「スペイン風邪」は、アメリカ軍のヨーロッパ派遣によって世界中にばら撒かれることになった。当時の流行拡大は、航空機ではなく船舶による人の移動によって、特に顕著な例としては、1818(大正7)年10月7日にフランスに到着したアメリカ軍のヨーロッパ派遣兵の兵員輸送船「リヴァイアサン号」は、1万1千人程の乗員を載せていましたが、航海中に船内で2千人が「スペイン風邪」を発症し80人以上が死亡しました(下船後も含めると合計約200人が死亡したと言われています)。派遣兵や帰還兵が駐屯するアメリカ・ヨーロッパの都市や農村からその他民間人に広がっていった。

 感染期は大きく3波あったとされ、その間大きく3度ウイルスに変異があり、第1波(1918(大正7)年3月~)は通常のインフルエンザに類似していた、第2波(1918(大正7)年8月~)は変異したウイルスの非常に毒性が高く健康な20歳~35歳青年層において非常に高い致死性が特徴で、死亡者数も大幅に増加した。第3波(1919(大正8)年1月~)のウイルスの変異により毒性は第1波より高く、第2波より低く致死性も低下した。この当時はまだ電子顕微鏡は開発されてなく原因となったウイルスは、見つけることも分離することも不可能であった。1930(昭和5)年に電子顕微鏡が開発され、「スペイン風邪」がウイルス性の感染症であったことが解明されたのは流行が終わって15年後の1935年のことでした。そのためワクチンや特効薬は開発は不可能であり、パンデミックの終焉については、人口集中地域での感染者が多く集団免疫ができたことや、ウイルスの変異で弱毒性となり通常のインフルエンザと変わらないものになったと言われています。

 

マスクを着けて登校する女学生

 日本で「スペイン風邪」が確認されたのは、1918(大正7)年4月、当時日本が統治中であった台湾に巡業した大相撲力士の真砂石(小結)ら3人の力士が肺炎等によって死亡した事が契機となった。同年5月に開催された夏場所では高熱などにより全休する力士が続出したため、世間では「相撲風邪」や「力士風邪」と呼んでいた。同年5月になると、横須賀軍港に停泊中の軍艦に患者が発生し、横須賀市内、横浜市へと広がっていきました。その後、1918(大正7)年8月に本格的に日本上陸し、当時整備が進んでいた鉄道網を伝わって全国に広がって同年10月に大流行が始まり、世界各地で「スペイン風邪」が流行していることや、国内でも各都道府県の学校や病院を中心に多くの患者が発生していることが新聞等で大きく報じられている。日本を襲った「スペイン風邪」の猛威は、列島を均等に席巻し、各地にむごたらしい被害をもたらした。とりわけ重工業地帯で人口稠密であった京都・大阪・神戸の近畿三都の被害(死亡率)は東京のそれを超えていました。

わが国も第一次世界大戦に参戦していたため、先に述べたアメリカ軍の「リヴァイアサン号」悲劇同様の事件が発生しています。それは軍艦「矢矧(やはぎ)」事件です。「矢矧」は呉を母港とする軽巡洋艦で、計469人を載せて航行中、1918(大正7)年11月に立ち寄ったシンガポールで、一時上陸した乗組員によりインフルエンザウイルスが持ち込まれてしまいます。閉鎖空間である艦内でインフルエンザが爆発的に流行し、看護手、軍医も倒れ、最終的に306人(65%)が発症、うち48人が死亡(致死率16%)したというものです。長い航海で乗組員は疲労が蓄積し環境も劣悪だったとはいえ、スペインインフルエンザのインパクトを現在に伝える貴重な事件の記録といえます。今回の新型コロナウイルスの感染においても、ダイヤモンド・プリンセス号や旭川・大阪等において災害派遣で自衛隊が医療支援を行っていますが、だれ1人感染することなく任務が遂行できるのはこういう経験の積み重ねがあるためかもしれません。

 わが国の第1波の大流行は1918(大正7)年8月下旬に流行が始まり、11月には全校的な大流行になりました。この年は、普段なら流行が終息するはずの5月頃になってもインフルエンザ様の疾患があちこちで発生しました。例えば軍の営舎に居住する兵士や紡績工場の工員、相撲部屋の関取など、集団生活をしている人達の間での流行が目立ちました。これらは季節性インフルエンザの流行が春過ぎまで長引いたものなのか、「スペイン風邪」の始まりだったのかははっきりしませんが、しかしアメリカから「スペイン風邪」第1波(春の流行)が世界に拡散していた時期に一致しますので、この時ウイルスが日本に入ったとも思われます。
 本格的な「スペイン風邪」が日本を襲ったのは、1918(大正7)年9月末から10月初頭と言われています。当時の内務省衛生局は1918(大正7)年8月~1919(大正8)年7月を「第1波流行」と記しています(なお、欧米の流行と、日本国内の流行は時期も多少ずれています)。「スペイン風邪」は各地の学校や軍隊を中心に1カ月ほどのうちに全国に広がりました。10月末になると、郵便・電話局員、工場・炭鉱労働者、鉄道員、医療従事者なども巻き込み、経済活動や公共サービス、医療に支障が出ます。新聞紙面には「悪性感冒猖獗(しょうけつ)」、「罹患者の5%が死亡」、山間部では「感冒のため一村全滅」といった報道が見られるようになります。この頃、死者の増加に伴う火葬場の混雑も記録されています。【(神戸新聞参照)神戸には、夢野と春日野の二箇所に火葬場があったが、それぞれ100体以上の死体が運ばれ、処理能力を超えてしまい、棺桶が放置されるありさまとなった。】

 嵐のような第1波流行も12月頃には勢いが低下しました。当時の内務省衛生局は、日本国内の総人口5,719万人に対し、第1波流行期間中の総患者数は2,116万8千人と報告しています。すなわち国民の約37%がこの期間にインフルエンザにかかったことになります。このうち、総死亡者数は25万7千人とされていますので、単純に計算すると致死率は1.2%になります。
 その後、第2波流行(1919(大正8)年9月~1920(大正9)年7月)では総患者数241万2千人、総死亡者数12万8千人(致死率5.3%)、第3波流行(1920(大正9)年8月~1921(大正10)年7月)では総患者数22万4千人、総死亡者数3,698人(致死率1.6%)と記録されています。内務省衛生局の資料をもとに日本の「スペイン風邪」の時間経過と患者数および致死率の推移を下記に示しました。先述の通り確定診断の方法がなかった時代ですので、その数はあくまでも参考ですが、第1波より第2波流行のほうが、患者数は減少している一方、致死率が著しく上昇している点はアメリカと同様であり注目されます。第3波目は、総患者数からみてもすでにウイルスの変異により季節性インフルエンザに移行したのかもしれません

流行時期感染者数 死亡者数 致死率
第1波1918(大正 7)年 8月~1919(大正 8)年 7月21,168,398人257,363人1.22%
第2波1919(大正 8)年 9月~1920(大正 9)年 7月2,412,097人127,666人5.29%
第3波1920(大正 9)年 8月~1921(大正10)年 7月3,698人224,178人1.65%
合計1918(大正 7)年 8月~1921(大正10)年 7月23,,824,673人388,727人1.63%
日本の「スペイン風邪」の被害(内務省衛生局 資料)

 当時の日本内地の人口は5,600万人と言われていますので、総人口の42.5%(23,824,673人)が感染し、1.68%(388,727人)が死亡したことになります。これは1945(昭和20)年3月の東京大空襲による犠牲者の約10万人や日露戦争の戦死者9万人に比べても大変大きな犠牲者を出したことがわかると思います。単純にこの死亡率を現在の日本の人口(1億2650万人)に当てはめると873,000人が亡くなる計算となります。これは、鹿児島県の人口の半分とほぼ同数ですので改めて被害の大きさに慄然としてしまいます。

新しい生活様式で感染防止に努めましょう

タウンマネージャー

miyakonojyo-tm

福岡県生まれ、2015年より都城市中心市街地活性化タウンマネージャー

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