疫病退散祈願第二弾、神柱宮に路上観察的参拝(その1)

                      神柱神社の一の鳥居

 都城市を代表する神社といえば神柱宮であろう、この一の鳥居は、壮大で参拝するものをまず驚かせる、向かって左側の柱の根の下にこの鳥居の諸元がが記されていた、昭和54年7月8日竣工、柱廻り 8.9m、高さ 25m、笠木幅 32.4m、額 長さ 4m・幅 2.6m、とにかくでかい。後で調べてみると建設当時は日本一大きな鳥居だったそうですが、現在の日本一は、2000年に出来た熊野本宮大社の高さ 33.9m、笠木幅 42mだそうです。      

 この鳥居を越えると、左に泉池回遊式庭園が見えてくる。この様式の庭園は大きな池を中心に配し、その周囲に園路を巡らして、築山、池中に設けた小島、橋、名石などで各地の景勝などを再現した庭園形式で、園路の所々には、散策中の休憩所や、庭園を眺望する展望所として、茶亭、東屋などが施されている。代表的なものとしては、桂離宮、兼六園、水前寺公園などがある。この庭園は、松原茶屋(旧島津御茶屋敷跡)時代からあったものなのか、公園整備の時に作られたものかは調べてみたが不明である。右側には神柱公園があり市民の憩いの場となっている。

 参道を進みますと境内へ上がる階段が見えてきます右手に、別表神社 神柱宮の石碑が見えてきます。別表神社とは一種の神社の格式で、それにについては、平安時代の延喜式(エンギシキ)まで遡ることができます。延喜式の巻9・巻10では祈年祭において天皇の命により幣帛(ヘイハク)を奉納する、奉幣(ホウヘイ)を行う神社神社2,891社が記されています。これらの神社は式内社と言われ当時の朝廷から重要視された神社でしたが、現在では消滅したり不明になっている神社も多くあります。その後、武家社会になり住民がすべて旦那寺の檀家になり、住民を管理する寺請制度が行われ、寺の関係が深くなりその管理に力を注いだところから、神社の格付けはそれほど重要視されませんでした。

 大政奉還後、天皇を中心とした国家づくりが行われる過程で国家神道として天皇の神格化が行われ、「近代社格制度」が実施された、皇室からから祈年祭・新嘗祭に奉幣を受ける官幣社(神祇官が祀る神社)と国からから祈年祭・新嘗祭に奉幣を受ける国弊社(地方官が祀る神社)218社が定められた。官幣社は国弊社より格が上とされ、それぞれ大・中・小の順に格が下がる。それ以外は、諸社と言われ府・県からから祈年祭・新嘗祭に奉幣を受ける府県社、市・町からから祈年祭・新嘗祭に奉幣を受ける郷社、村・地域からから祈年祭・新嘗祭に奉幣を受ける村社を指定し、それ以外は無格社となった。格的には、官幣社>国弊社>府県社>郷社>村社>無格社の順番となっている。宮崎県内の官幣大社は、鵜戸神宮・宮崎神宮の2社である、官幣の中・小社はなく、国弊小社は都農神宮1社である。

 敗戦後、GHQに指示により国家神道の廃止、政教分離がが進められ「近代社格制度」は廃止された。その後、神社本庁が宗教法人として発足し、各神社を管理していく上で伊勢神宮を除く旧官国弊社や一部の規模の大きな神社においては、神職の進退等に関して一般神社と同じ扱いにすると不具合があるところから、「役職員進退に関する規定」において特別な扱いをする神社を別表に記載したところから「別表神社」と呼ばれることになりました、主に官幣社・国弊社・府県社を中心に全国353社が指定されている。別表神社は、近代社格制度のように神社の格付けを行うものでなくあくまでも神社の人事のみに関する区別であるが、別表で掲載されている神社は神社の由来、社殿、境内の規模、神職の数など比較的大きな規模の神社であり、一般的に格付けと捉えられている。なお、伊勢神宮は別格とされ別表神社に入らず、神宮大宮司は、「神宮規則」により、勅裁を得て任命される、特別な扱いがなされる。また、伏見稲荷大社、靖国神社、東照宮等は神社本庁に属していないため旧官幣社でありながら別表には記載されていない。

 二の鳥居を超えると階段の左右に境内神社「神門神社」があり左殿に櫛石窓神(クシイワマドノカミ)、右殿に豊石窓神(トヨイワマドノカミ)が神社全体をお守りしている。この2神は、天石戸別神(アマノイワトワケノカミ)と言われ。古事記の天孫降臨の段に登場し、天津彦瓊瓊杵命(アマツヒコニニギノミコト)が天降る際に、三種の神器に常世思金神(トコヨノオモイカネノカミ)、天手力雄命(アメノタジカラオノミコト)、天石戸別神を副えたと記されています。別段では、御門の神であると期されています。そのことから、天石戸別神は宮中でも宮殿の四方の門に祀られていた守り神様です。神柱宮でも境内地の守り神として睨みを利かしていいるのでしょう。

                       右殿の神門神社

 手水舎のそばに案内板がります。お祀りしている祭神は主神は、天照皇大神(アマテラススメオオカミ)、豊受姫大神(ヨヨウケヒメノオオカミ)、相殿神(主神とのご縁が深く一緒にお祀りしている神様)左殿には天津彦瓊瓊杵命(アマツヒコニニギノミコト)、天手力雄命(アメノタジカラオノミコト)、右殿には天太玉命(アメノフトマタノミコト)、天津児屋根命(アマツコヤネノミコト)、萬旗豊秋津姫命(ヨロヅハタトヨアキツヒメノミコト)の七神が祀られています。この中に天岩戸にお隠れになった時や、天孫降臨の神話に出語られた神様が多いるようです。

 まずは、岩戸にお隠れななった張本人の天照皇大神、岩戸を開き戸隠神社(長野県)まで投げ飛ばし天手力雄命、三種の神器に一つである八咫鏡(ヤガタノカガミ)差出した、天太玉命と天津児屋根命。天孫降臨では天照皇大神が孫の天津彦瓊瓊杵命に三種に神器を持たせて、豊葦原瑞穂の国を治めるために、高天原の神を連れて天降るように命じます。その際、五伴諸神(イツトノオノカミ)と呼ばれる五神の神様を伴います。ここにも先ほど紹介した、天太玉命と天津児屋根命の2神が従います。また、これとは別に先ほど神門神社に祀られている、櫛石窓神、豊石窓神が三種の神器をお守りして従います。

 私も宮崎に来て、神話に興味を持ち色々と勉強させてもらいましたが。宮崎は他県から来ると、身近に神話があると土地だとつくづく思います。

 これからは、お祀りされている神様について紹介したいと思います、まずは、主神の天照大神です、女神で国家安泰、太陽神、農耕神、機織神であり、皇室の祖と言われ、最も高貴な神で伊勢神宮の内宮でお祀りされています。元々は宮中で奉祀していましたが10代天皇、崇神天皇5年に疫病が流行し多くの人々が亡くなりました。翌年、疫病退散を願い天皇は天照大神を皇居の外に移すことにします。皇族の豊鋤姫命(トヨスキヒメノミコト)に命じて笠縫邑(かさぬいむら)に鎮座されます。その地については、現在の大神神社(大神神社、奈良県桜井市三輪)、笠山荒神社、(奈良県桜井市笠)、大多神社(おおじんじゃ、奈良県磯城郡田原本町)ではないかと言われています。その後、12代天皇、垂仁天皇25年に、現在の伊勢の地に鎮座されました。

 豊受姫大神は天照大神の姪に当たる食物、穀物を司る女神さまで、伊勢神宮の外宮でお祀りされています。

 天津彦瓊瓊杵命は天照大神の孫に当たり、農業を司る神と言われています。天孫降臨で天降り高千穂の峰に降り立ったと言われている。五伴諸神の一神である、天手力雄命は力の神であり、天津彦瓊瓊杵命や三種の神器の守護神です。天太玉命、天津児屋根命も五伴諸神ですので、天津彦瓊瓊杵命や三種の神器の守護神です。                    

 天津児屋根命は、岩戸隠れの際に、岩戸の前で祝詞を奏上しました、名前のアマツコヤネノミコトのコヤネは「小さな屋根(の建物)」または、「言綾根(コトアヤネ)」の意味で、「天上界の小屋根(託宣の神の居場所)」または、「祝詞を美しく奏上すること」と言われています。託宣の神の居場所というと言えば、託宣神である前のブログで書いた、事代主命(コトシロヌシノミコト)と関係があるのかもしれませんね。「古事記」には天孫降臨の際に天津彦瓊瓊杵命に随伴し、中臣氏の祖神(オヤガミ)になったと記されています、通称として春日大明神とも呼ばれ、中臣鎌足を祖とする藤原氏の氏神とされて信仰されてきた他、藤原氏の繁栄にあやかって現在では出世の神としても信仰されています。

 それぞれの神々を思いながら、手水を使い心静かに、神々に新型コロナの疫病退散をお祈りさせていただきました。

                        基柱神社

 本殿の右手に境内神社の基柱神社(モトバシラジンジャ)があります。ご祭神は菅原道真公(スガワラノミチザネノミコト)と平 季基命(タイラノスエモトノミコト)がお祀りされています。                                      

 菅原道真命は学問の神様、天神様としてよく知られています。醍醐天皇の時代に右大臣にまで昇進し、朝廷のトップに上り詰めたが、「宇多上皇を惑わした」とか「醍醐天皇を陥れようとした」などの、今でいうフェイクニュースが流されて、失意のうちに太宰府に流されほぼ幽閉生活を送り、失意のうちに亡くなってしまいます。遺体を牛車で運んでいると、現在の太宰府天満宮の所で牛が動かなくなりそこに葬ることとし、そこに廟を建てたのが太宰府天満宮の始まりとされています。

 これは福岡の都市伝説なのですが、合格祈願とか学力向上祈願にアベックで行くとすぐに別れることになる、と言われています。なぜかと言うと、菅原道真は太宰府には単身赴任で来ていたので、焼きもちを焼いて別れさせられるらしいのです。もう一つの説は、合格祈願とか学力向上祈願して、これから努力しなくちゃいけない時期に、異性とイチャツクている時じゃないだろうという説です。

 昨年は、年号が改まったことで、近くの坂本神社に在ったとされる、太宰府に赴任していた、大伴家持の邸宅で行われた、万葉集に掲載された梅見の宴で催された歌会の序文から令和の元号が選ばれました、その所縁の地として多くの観光客が訪れました。ここで少しこの序文をおさらいしてみましょう。

(原文)于時、初春月、氣淑風、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。

(書き下し文)時に、初春の月にして、気淑く風らぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮梅見の宴後の香を薫す。

(読み)ときに、しょしゅんのれいげつにして、きよくかぜやはらぎ、うめはきょうぜんのこをひらき、らんははいごのかうをかをらす。

(現代文訳)時は初春のい月(よいつき)である、空気は美しく、風はやかで、梅は鏡の前の美人が白粉で装うように花開き、蘭は身を飾る衣に纏う香のように薫らせる。

 次に平 季基命についてですが、資料が乏しく出自等ははっきりしませんが、万寿年間(1024年~1028年)に太宰大監(ダザイダイゲン)の職にありました。位から言えば大宰帥(ダザイノソチ)、太宰大宰権帥(ダザイノゴンオソチ)の下に置かれた、四等官と呼ばれる中間管理職で四等官には六階級のうち上から三番目の位にありました。万寿3年(1026年)に弟の良宗と共に未開の地であった日向国諸県郡島津院に荘官として島津荘の開墾を行うことになった。        

 平 季基は荘官として島津荘を治めるに当たり、梅北に屋敷を構え、正月20日に梅北村大吉山より門柱を切り出し、惹いて家門を建てようとして、片柱を500人で惹いても動かず、さらに500人増やして柱を惹こうとした時、その光景を見ていた6歳になる娘がにわかに神がかりになり、「われは伊勢の外宮(豊受姫大神)なり、この地において万民を護ろうと思う。速やかに社を造営し、その社の名前を『神柱』と称すべし云々」というご神託により、平 季基は直ちに伊勢神社に赴き皇大御神(スメオオミカミ 天照大神)様のご分霊を奉戴して、同年9月9日に諸県郡中郷村大字梅北字益貫に創建奉祀されたのが「島津御荘総鎮守神柱神社」の創始と社名の由来です。平 季基命は神柱神社の創建者であり、また初代の祠官(シカン)を務めました。

 開拓は着々と進み、これを関白の藤原頼通に寄進して、後に日本最大級の荘園となる嶋津荘を成立させました。その後に家督を娘婿である伴 兼貞に譲り、自らは諸県郡南之郷箸野(現在は橋野)御所に隠居し、同地に若一王子神社を造営し社司として生涯を終えました。曽於市末吉町南之郷字橋野の若一王子神社の近くには墓所があるが、その霊は都城の礎となる島津荘を開拓した功績によりここに祀られています。

                      神柱宮の案内版

 案内板を見てみると明治6年(1873年)5月に25日に県社別格となり、先ほど紹介した梅北から小松原に同年10月28日に遷座したようです。これに関しては、明治4年(1971年)11月14日に都城県が発足しましたが、わずか14か月後の明治6年(1973年)1月15日に美々津県と合併して宮崎県が発足しました。都城県が廃止された以降に県社に指定されていますが、これに奔走したのが当時の(県知事)参事 桂 久武(元薩摩藩士)だと言われています。桂 久武は神柱神社が都城を中心とする元島津荘の島津御荘総鎮守である神柱神社が都城県にとって県社とするのがふさわしいく、都城県の中心部に近い松原茶屋(旧島津御茶屋敷跡)遷座させるべきと考えていました。地域の人々も大いに賛成していましたので、宮崎県となった後も、神柱神社を県社とし小松原に遷座させるこになったそうです。

 ここで少し桂 久武のことについて書いてみましょう。桂 久武は大河ドラマ「西郷どん」では、スピードワゴンの井戸田潤さんが演じていましたが、島津家分家・日置島津家当主の島津久風の五男として生まれます。次兄は沢村一樹さんが演じていた「お由良騒動」で切腹させられた赤山靭負(アカヤマユキエ)です、ドラマではその時、介錯人のお願いに来たのが桂 久武でした。赤山靭負は、西郷隆盛の幼少の時代に大変影響を与えた人で、西郷の父の吉兵衛が切腹の時に靭負が身に着けていた血染めの肩衣を持ち帰り、赤山の最期について、吉兵衛から聞かされた西郷が悔し涙を見せる姿は、彼の人生序盤のハイライトと言えるでしょう。

 桂 久武は弓の名手でありそのころは、武士館演武方の要職を務めていましたが、お家騒動の巻き添えになり大島守衛方・銅山山方に左遷され奄美大島に赴任します。その当時、そのころ流刑中でであった西郷隆盛と親交を結び生涯の友となります。その後、藩の中枢である大目付、家老に昇格し薩長同盟の提携に尽力し、西郷から厚い信頼を受けます。明治政府では、明治3年(1970年)に西郷と共に鹿児島藩権大参事となり藩政のトップを務めます。

 先ほど述べたように明治4年に都城県の(県知事)参事となります。14か月と短い期間でしたが、都城県を治める三大方針の一つが「学業を奨励して人材を育成する」で、都城に学業振興・人材育成の大切さを示しました。都城県が廃止された後、豊岡県(京都府北西部と兵庫県北部地域)の権県令(ゴンゲンレイ)の辞令を断り、現在の霧島市に移住して、開拓の指導や、鉱山開発を行っていました、官職には就きませんでした、久武の能力を高く評価していた大久保利通は、政府の役人になるよう五代友厚(ゴダイトモアツ・鹿児島藩出身の明治期の実業家)に、斡旋を依頼したほどです。明治10年(1877年)西南戦争に西郷隆盛が挙兵しその見送りに赴いたところ、西郷側の輜重(シチョウ 前線に送る兵糧、被服、武器、弾薬等の軍需品)があまりにも粗末にであったのを見かねて、家人に自宅に刀を取りに帰らせ、そのまま薩摩軍の隊列に加わりました。従軍後は大小荷駄本部長(輜重の責任者とし)て、西郷と共に転戦しましたが、同年9月24日政府軍が薩摩軍が籠もっていた城山を総攻撃して来た時、西郷と桂 久武・桐野利秋・村田新八・池上四郎・別府晋介ら約40名の将士は洞前に整列し決意新たにし、岩崎口に進撃しました。まず国分寿介が剣に伏して自刃し、桂 久武が被弾して斃れると、弾丸に斃れる者が続き、島津応吉久能邸門前で西郷も股と腹に被弾した。西郷は別府晋介を顧みて「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」と言い、将士が跪いて見守る中、襟を正し、跪座し遙かに東に向かって拝礼しながら、別府に首を打たせる形で自害した。介錯を命じられた別府は、涙ながらに「ごめんなったもんし(お許しください)」と叫んで西郷の首を刎ねたと伝えられています。桂 久武は最後まで西郷と共に戦い生涯を終えた享年47歳。墓所は南州墓地にあり、西郷の墓を囲む幹部の墓の中にそれはあります。

              生涯の友、西郷隆盛の墓と並んでいる桂 武久の墓

 少し長いブログになってしまったのでこの辺でキーボードから手を放そう、昔はペンを置こうとやるのですが、次回は(その2)として神柱神社の別の場所について書いてみよう。

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