新型コロナウイルス疫病退散のため八坂神社に路上観察的に参拝

 前回、蘇民将来をめぐる素戔鳴命と牛頭天王について書いてみましたが、新型コロナウイルス疫病退散のために宮丸町にある八坂神社に参拝して疫病退散を祈願して来ました。皆さんご存じの通り日豊線の高架橋の下にある神社です。 高架越しに神社の森と一の鳥居が見えてきました、

 境内に入ると二の鳥居と本殿が見えてきます、さっそく手水を使おうと思って手水舎に行きましたが、水がありませんでした。仕方なく、そのまま本殿に進んで疫病退散の祈願をしてきました。普通は、手水舎の近くに祭神や云われ等を書いた案内板があるのですがそれもないのでしばらく境内を観察してみることにしました。

二の鳥居から見た本殿

 本殿の左側に境内神社の小さな祠が見えますが、祭神はわかりませんでしたが、取り合えず境内神社も参拝しました。境内神社の前に4基に大きな碑が見えます。境内神社の前には小さな狛犬があります。この碑にこの神社の祭神や云われが書いてあるのかもしれませんので、さっそく観察してみました。

 碑は左から順に新しくなっていきます。一番左は大正3年に本町からこちらに移転して来た時のものです。その次は、昭和42年に社殿の建て替えを行た時のものです。その隣のものは、昭和52年に日豊線の高架化で境内地の一部が買収されそのために、社殿等の配置が不釣り合いになり、社殿・鳥居・灯篭・手水舎・記念碑・神庫にの移転改装を行いその後、本殿の銅板の葺き替えと恵比須神社の改築を行た記念碑です。その隣は、これと同時に行った玉垣とにの鳥居の新設の記念碑です。

 この4基の碑を見て祭神と云われが、だいたい理解できましたので、宮丸町の八坂神社について紹介してみましょう、祭神は須佐之男命(スサノオノミコト)[前回のブログでは、素戔鳴命と書いていましたが、碑文では須佐之男命となっていますので今回のブログでは須佐之男命とします]と大国主命(オオクニヌシノミコト 須佐之男命の子孫6世孫にあたります)です。須佐之男命は、前回にブログに書いたように疫病除けの神様です。一方の大国主命は大黒様とと呼ばれ「因幡の白兎」の神話でよく知られています。大国主命は出雲とのかかわりが深く出雲大社を筆頭に多くの神社に祀られている「病を封じる神(医療神)です。余談ですが大国主命とは子だくさんで180人の子供がいたそうです。八坂神社は、これだけで新型コロナウイルス退散祈願にはピッタリの神社です。

境内神社 左が恵比須神社 右の祭主は不明

 境内神社に恵比須神社があります。えびすは、恵比須・恵比寿・戎・蛭子・胡等色々な表記がある。実は恵比須神社には恵比須神社には恵比須様を祭神として蛭子命(ヒルコ)をお祀りするところと、大国主命の子である事代主命(コトシロヌシノミコト)をお祀るするところがあります。前回のブログで書いたように、素戔鳴命と牛頭天王が同一視され神仏分離令の実施後、素戔鳴命に統一化されたように、室町時代から七福神の一柱であるり、「大漁追福」「寄神(漂着物)」「商売繁盛」「五穀豊穣」の神である恵比須が蛭子命や事代主命と同一視されるようになってきた。

 蛭子命は国生み神話で有名な伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)の子供ですが、3歳になっても足が立たなかったため、葦の船に入れられて、淤能碁呂島(オノゴロジマ)[淤能碁呂島は淡路島沖にある沼島と言われている]から流されます。そのため伊邪那岐命と伊邪那美命の子供の数には数えられていません。流された蛭子命が流れ着いたという伝説は日本各地に残っています。「源平盛衰記」では、摂津の国に流れ着いて海を領する神となって、夷三郎として西宮に現れた(西宮大明神)と記している。蛭子命が海からやって来たことから、恵比須が漁業や漂着物を司る「海の神」である恵比須の姿と一致し同一視されるようになった。蛭子命を祭神とする総本社は兵庫県西宮市にある十日戎の走り参り(1月9日開催)で「福男選び」で知られる西宮神社です。

 一方、事代主命は先ほど書きました通り大国主命と神屋楯比売命(カムカヒメノミコト)の間に生まれた神です。事代主命という神名は「言葉(事)を知る(代)神」神様のお告げを表す「託宣の神」と意味を持ち。託宣の力で天皇を守護する神として、宮中において祀られる重要度の高い神です。直接的に恵比須を表す海とは関連はありません。しかし、国譲り神話で、父である大国主命の使者が事代主命に天津神(高天原に住む神々のこと)からの国譲りの要請を受諾するかを尋ねるために訪れた時、事代主命が釣りをしていたとされるところから恵比須が海の神であることが結びつき、両者を同一視する説ができてきた、七福神の絵図で恵比須が釣竿を持ち鯛を釣り上げているのは、この事代主命の伝承によるものと言われている。事代主命の父である大国主命が大黒天と習合したしたことにより、恵比須と大黒天が親子ともされている。事代主命を祭神とする代表的な神社は、なにわの商売繁盛を願う福笹や毎年3,000人以上の応募がある福娘で有名な十日戎が行われる今宮戎神社です。その歴史は古く聖徳太子が四天王寺を建立する際その西方の守護神として建立されたと言われています。

 この今宮戎神社と八坂神社(京都にある総本社)とはかかわりが深く、八坂神社の氏子が今宮に移り住んだとき、今宮戎神社ご分霊を分社とし八坂神社の境内神社にお祀りしたことに始まります。この境内社は珍しく北向きに立っているところから北向蛭子神社と呼ばれています。そのご縁から、今宮戎神社からは毎年、祇園祭の折りには幣帛(ヘイハク)を、大晦日には鯛をご奉納いただきます。八坂神社からは1月8日に、今宮戎神社の十日戎に先だっての献茶祭に神水を持参してお供えします。このような関係から、宮丸町の八坂神社の境内神社にお祀りしている恵比須神社も祭神は事代主命と思われます。

         鶴丸城址にある都城歴史資料館

 碑文によると元和元年(1615年)祇園社として鶴丸城址に勧請(カンジョウ 神仏の分霊を請じ迎えること)されました。この年は、大坂冬の陣で豊臣勢が徳川家康によって滅ぼされ江戸幕府が成立した。そのためこれまでの慶長から元和に改元されました。この年は、都城島津氏にも大きな出来事がありました。この年、一国一城令が出され鶴丸城が廃城となり、新地移りと言われる新たなまちづくりが行われ、天神山(現旭丘神社)を中心に都城領主館(市役所、明道小学校周辺)が建てられ、この領主館を中心に武家屋敷が立ち並び、広口交差点付近に北口番所が置かれ、番所から領主館までの道は武士以外の通行は規制されていた。城下町も五十町中尾から移転され、本町(元上町)、三重町、後町(元西町、八幡町)唐人町(元中町)平江町という町人街が形成された。本町には一番多くの店があり領主館に卸す御用商人たちの店も並んでいた。このことから、城下町の中心から少し離れた場所に祇園社は建てられたようです。

              幕末期の都城の地図(出典:都城の地名考)

 藤本総合病院の西側の交差点のところに交差点の北西角に東口番所がありました。この前から、セブンイレブン蔵原店、NTTを経て神柱神社と忠霊塔のある公園の間ににある道路は江戸時代は志布志往還(シブシオウカン)と言われる重要な通りがありました。新地移り当時には、広口交差点の南東角にあった北口番所から志布志往還を結ぶ道路はありませんでした。その当時この辺りには水田が広がっていました。正保4年(1967年)ごろにこの田んぼを埋め立てて道を作ることにしました、この土を広口交差点の北東角の田んぼを掘り、その土で埋め立てしました、掘り下げた場所は池にして池の中の小島に阿弥陀堂を作りました。そのためこの池は阿弥陀池と呼ばれるようになりました。また、この通りはこのことから、池之小路(イケノドンス)と呼ばれるようになりました。

 大政奉還後に明治政府は神仏分離令が発布された後、明治元年に阿弥陀堂は廃寺となり、その跡に鶴丸城跡にあった祇園社が移転してきました。明治11年(1878年)ごろに埋め立てられ、南半分に祇園社が建てられ、明治15年(1882年)に北半分に郵便局が建てられた。祇園社の祭神がその当時たぶん、牛頭天王(ゴズテンノウ)のままになっていたのでしょう、明治35年(1902年)前後に西川治平氏の手によって京都の本社から須佐之男命の分霊をここに遷遇され祇園社から八坂神社と名を改めました。

                  阿弥陀池跡と右奥の道路が池之小路

 大正3年(1941年)1月12日に起こった桜島の大噴火により、八坂神社一帯は火山灰や軽石等が5cmほど積る災害に見舞われ、同年11月28日に現在の宮丸町の現在地に社殿、社務所を新築し移転しました。

 4月26日現在、新型コロナウイルス感染者数は、全国で13,242人、死者360人に上っています。宮崎では感染者17人、死者は0人です。福岡に帰りたいのですが、緊急事態宣言の特定警戒都道府県にも指定されていますし、感染者602人、死者14人と全国で7番目に多い感染者数です。宮崎県でも県外への移動は自粛の要請が出ているので帰ることができません。このゴールデンウイーク中は、新型コロナウイルス退散祈願の神社の参拝や観察をしながら、ブログでも書きながら、まったりと過ごしていきたいと思います。

タウンマネージャー

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福岡県生まれ、2015年より都城市中心市街地活性化タウンマネージャー

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